幼少時からずっと気にかかっていた佐渡島。
小学生の時の友人は父方が佐渡の出身で、夏休みになるたびに帰省して、真っ黒になって帰ってきた。
長岡在住時代、同じ新潟県なのに意外と佐渡島に行ったことがある人が少なくて、情報があまり入ってこないのも不思議だった。ポジティブに言う人も少なかった記憶がある。
何があるんだろう。わりと近い存在ながら、謎めいた場所だったのだ。
佐渡島のイメージは金銀山、能、トキのいる島、と言ったところだろうか。
あと、世界農業遺産として売り出し中なのはあちこちで目にしていた。
文化と産業が独特な構成で集積していて、そのルーツには「海の道」が深く関わりを持っている。
京から政治犯などを流した流人の道、そして江戸時代に日本中を結んだ北前船の道。古来、朝鮮半島からも多くの人が訪れたという。
いろんなひと・もの・ことがこの島に吹き溜まり、交わり合って、独特のカルチャーを育んでいったことは想像に難くない。
順徳天皇、世阿弥、日蓮が流された島。彼らは当時最先端の社会システム、文化、技術、信仰などを佐渡に持ち込んだ。佐渡弁の端々には京のニュアンスが残るという。かつての流人たちは佐渡弁に京の面影を垣間見て、郷里を想い涙したそうだ。
能舞台が深く根付いたのも、京にルーツを持つ人々の望郷の念をあらわしたものであり、ささやかな慰めだったのかもしれない。
1600年から390年続いた国家事業、金銀採掘。江戸幕府の財政を支え、多様な人・技術・文化を佐渡に集積させた。この時代は、あらゆる娯楽の類も集い、佐渡全体が大いに賑わった。一時の出稼ぎのはずが郷里を忘れて永住してしまう労働者も多かったそうだ。
金銀鉱脈をつくったのは火山活動である。マグマで熱せられた地下水に溶け込んだ鉱物が岩の間隙に溜まっていった。それは、やがて枯渇が訪れることを示している。
金銀採掘をグランドコンセプトとして構築された都市デザイン、島の社会システムは一気に崩壊していく。街並みに当時の名残を残しつつ、ところどころ手入れがされていない建物も目立つ。ゆっくりと風化に向かう、その途中。いまそこに残っているものは何だろうか。
佐渡島は江戸の時代に北前船の寄港地となったことで、海の道を通じた日本海の各都市、下関から瀬戸内、大阪・京都、江戸といった幅広い地域とのひと・もの・情報の交流があった。佐渡南端の宿根木の街は造船業で栄えたという。ここも今では、その名残を街並みの中にところどころ残すのみ。
小木の歴史民俗資料館では、かつての材木と工法によって再現された巨大な千石船が鎮座している。
そして、佐渡といえば朱鷺。伊勢神宮の式年遷宮の際に造られる宝剣の柄には、朱鷺の尾羽が二本使われるという。トキ、という音は日の出を意味する。これは日の出とほぼ同時刻に巣から出て、日の入りとともに巣に戻るトキの習性からくるものらしい。伊勢神宮に祀られるのは太陽神・天照大神。なぜ朱鷺がこれほど人々の心を掴むのか、少しわかった気がした。
世界農業遺産の国として、ふたたび発信力を持った佐渡島。小粒で甘みがギュッと詰まった黒イチジク。右を見ても左を見てもおけさ柿。銀葉藻、ナガモ、モズク、オニカヅラ、イゴネリなどの海藻食。ブリ、サバ、キジハタ、イカなど魚介類。棚田米。
イマドキの雰囲気を漂わせたレストランやアコモデーションもぱらぱらと。「美一」「清助」「花の木」にはお世話になった。みんなそれぞれにチャレンジしている。
佐渡島は、時代の大きな役割を果たし切って、ひとつのピリオドを迎えた。
生まれ変わらなければ、その先に待つのは暗い未来かもしれない。
しかし、幸いにしてこの島はまだまだ豊かな資源を残している。
島のあちこちには新たな胎動のようなものも感じる。新しい佐渡を描き出すべく、頑張っている人もまたたくさんいた。
佐渡島がこれからどのように変わっていくのか…
ときおり見守っていきたいと思う。