熊本から高速バスに乗り、阿蘇を越えてさらに1時間程度大分方面へ。
別荘地を抜けてしばらく行くと、深山の中に突如として大勢の人で賑わう温泉街が目の前に現れる。
知る人ぞ知る「黒川温泉」がここである。
豊かな自然に包まれながら、29軒の温泉宿が寄り添うように温泉街を形成している。
ここ黒川温泉はすべての温泉宿で1つの旅館という「黒川温泉一旅館」を掲げている。
現在からは想像もできないことだが、歴史ある湯治場である黒川温泉もまた、数十年前には閑散としてしまった時期があった。
このまま時代に取り残され、寂れて行くのを待つだけなのか…そんな時、宿の主人たちが奮起したのである。
豊かな温泉の恵みを分かち合いながら手を取り合うように暮らし、旅人をもてなす。
道は「廊下」、樹木草花は「庭」、旅館は「客室」。
29軒の温泉宿が一体となって、地域のリブランディングと一体整備に取り組んだ。
それから数十年がたった今では、全国から「いつかは訪れたい」と羨望を集める温泉地に一変した。
中心街を歩いてみれば、シニアのカップル、家族連れが多く、学生グループ、アジア系のインバウンドと幅広い人々の姿。
その一方で、10分ほど歩けばいかにものどかな農村風景が広がる。
水を引いたばかりの田んぼから聞こえるカエルの多重奏。
イトトンボが気持ちよさそうにフワフワ飛び回る。
正午の合図にニワトリがひと鳴きすると、農家のおばさんが昼食の準備をはじめる。
そのまま阿蘇に近づけば、風景は一変して壮大な高原の景色が眼前にあらわれた。
歴史ある温泉街の賑わいと、それを取り囲むのどかな農村の風景、壮大な高原の風景が一度に味わえるちょっと他にはない温泉地だと思う。
今回宿を取ったのは、先代が黒川温泉の再活性化の旗振り役となった「新明館」である。
黒川温泉の中でも最も有名なアイコンでもあるこの宿は、玄関につながる橋の風景を記念にと多くの観光客がシャッターを押す。
温泉街の名物に…との想いから先代が手掘りしたという洞窟風呂、そして広々とした露天がこの宿の名物だ。
立ち寄り湯が盛んな黒川温泉において、誰もが必ず訪れる大人気な湯船である。
かたや、内風呂は宿泊者のみが利用できるが、こちらが素晴らしい。
外の洞窟風呂と露天風呂が有名すぎるだけに、内湯を利用する宿泊客自体が少ないのだ。
よって、常にフレッシュな状態のお湯に浸かることができる。やや熱めではあるが、肌に吸い付いてくるような感触は新鮮なお湯ならでは。
ヨダレが出そうな思いをしながら、何度も内湯に出入りしていた。
さらにこの後に宿を取ったのが温泉街のいちばん外れにある「旅館 山河」。
黒川温泉の中ではゆったりとした空間のとりかたで、深山の中にひとつの集落をつくったかのような世界観。
苔むし鄙びた屋根の連なりが、秘湯の風情をかきたてる。
こちらも広々とした露天が名物の宿で、泉質は黒川温泉の中心部とはやや異なり薄く白濁したようなお湯。(ツウの間では貝汁系と言うらしい)
泉温もちょうどよく、自然を感じながら長湯したくなる魅力的な湯船だった。
夕刻に近づいたころ、湯上りの身体を風にさらしていると、
カジカガエルの美しい鳴き声がそこらじゅうに響きはじめた。
森を包み込む妖しく幻想的な響き。いつまでも耳を傾けていたくなる。
昔も今もこの感動は変わらない、と思う。
…と、すっかり浸っていたところに、僕のお腹の虫が素頓狂な鳴き声をあげた。
ああ、そろそろ仲居さんが夕飯の合図に来るかしら。