ISLOMANIA島へのあこがれ

2018.08.26
弥生時代のイノベーションセンター「壱岐・原の辻遺跡」

壱岐での目的地のひとつ、原の辻遺跡(はるのつじいせき)へ。

広大な草原の中央がちょっとした高台になっていて、周囲は見渡す限り水田の平地。明らかに特別な空気感が漂うその一帯に、弥生時代のムラが復元されている。

ムラと言えど、そこは魏志倭人伝にも登場する一支国(いきこく)の中心都市だった。サイズは東西350m、南北750mほど。縄文〜弥生、それ以降の時代においても、日本と東アジアの結びつけていたとても重要な場所。

魏志倭人伝の記述を見てみると、
「又南渡一海千餘里名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食 亦南北市糴」の57文字で、「(対馬国から)また南に一海を渡ること千余里で一大国(一支国)に到着する。この海は瀚海と名づけられている。この国の大官もまた卑狗、次官は卑奴母離という。広さ三百里平方ばかり、竹木・叢林が多く、三千ばかりの家がある。ここはやや田地があるが、水田を耕しても食料には足らず、やはり南や北と交易して暮らしている。」
とされている。

ここに国内外のモノを物々交換する市が出たり、大陸から伝わってきた製鉄技術を応用してオリジナルの鉄器を開発したり、最新の稲作技術や狩猟技術を実験したりしていた。
渡来人はというと、ここに留まって異国の暮らしぶりを記録したり、交易したり、畿内からの入国の許可を待ったりしたらしい。
まさに人・文化・技術の交流拠点であり、当時のイノベーションセンター、フューチャーセンターでもあったのだ。大陸から最先端の刺激が流入し、混ざり合い、現代の日本につながる政治や産業、文化の礎がここから広がっていったことは想像に難くない。


だだっぴろい集落の真ん中に立って、周りをゆっくり見わたしてみた。あたり一面はバッタとトンボが飛び交う緑の平原。その広大さと静けさが意識を過去にトリップさせる。
2000年以上むかしに、まさにいま立っている場所で弥生人や渡来人の日常があった。

遠いようで近い、近いけど忘れ去られてしまった、ぼくら日本人史の中の大事な1ページ。

壱岐島の南東部、芦辺と印通寺の間あたりに広大な平地が広がる。稲作技術が発展途上だった時代には湿地帯以外では稲を育てられなかった。大陸から伝わってきた稲作をすぐに実験できたのもこの土地が栄えた大きな要因の一つだろう。

遺跡のサイズは東西350m、南北750mくらい。だだっ広い平原を歩き始めたところ。歩くたびにバッタが音を立てて飛んでいく。あまりの何もなさっぷりに縄文か弥生の時代にタイムスリップしてしまったようだった。

ムラの入り口に差し掛かる。ここでは17棟の建物が復元されているが、魏志倭人伝には3000余りの住居があったとされている。もう少し密度はあったのだろうが、それにしても村民一人あたりに与えられたスペースは現代と比べ物にならない。

中央に見えるのは物見櫓。幡鉾川を船で登ってくる渡来人や、外敵を見張っていた。近くによると10m近くあったと思う。これまたよく作ったと思う。

物見櫓の脇にある、兵士の待機所。茅葺屋根のかわいらしい建物。

こちらは交易を司っていたものの家。つまりは商人のリーダーと言ったところか。この役を任せられたのは渡来人系の人物だったそうだ。かつてもビジネスを仕切っていたのは異文化交流に長けた人物だったことがうかがえる。この他に通訳の家、と言うのもあった。

使節団の宿泊場。大陸や朝鮮半島からやってきた使節団は、原の辻遺跡で商売をしたり、さらに本土へ移動するために畿内からの許可を待ったりしていた。

穀物の倉。しっかりねずみ返しがついている。

ムラの王の家。他の建物よりかなり立派な造りだ。祭祀を司り、神のお告げを村人に伝えたりしていた。船旅の出発の可否を判断していたりもしたと言う。祈りや占いが政治を大きく左右した時代。

ムラの真ん中に立って、ぐるりと周囲を見渡してみる。平地の高台にあって、どこまでも広がる稲田は壮観だ。
ちなみに写真中央、向こうの山の上にポツンと見えるのは一支国博物館の展望台だ。